障がい者になりきれない半端もの

私は片耳の聴力がほとんどない。

片方のほとんどっていうのが厄介。デシベル次第。

聴こえるほうの片耳は聴こえすぎるほど聴こえる。

 

先天性ではなく幼少期の高熱による後遺症(たぶん)

親も小学生に上がってから聴力検査をして学校に呼び出されてから初めて知った。

そういえば話しかけても無視をすることがあったな。でも振り向くこともあったな。と、その程度だった。

耳鼻科にも通って何度か検査したけど同じ結果だった。

自分で自覚したのはもっと後かな。

クラスで伝言ゲームで耳打ちをするときに全く何を言っているのかわからない。耳を逆にしたら聴こえる。

でもそれが聴こえる聴こえないという感覚になるまでには結構時間がかかった。

はっきりとこれが原因かもわからないけど、発展して長年シカとされるいじめにあっていた。そのいじめの陰湿具合といったら吐き気がする。

 

ある日の道徳の授業。

普段は口数も少なく、なるべく目立たないようにしていた私に、担任が「つんぼ」って言われたことない?と私に訊いてきた。

そういえば、近所の親戚とかおじちゃんには言われたこともあったような…

それが「差別用語」だと知ったのはその授業。

それまでは差別されてるなんて意識もなかったし、おじちゃん達もそんなつもりはなく普通に言っていたんだろうけど、世間が「差別」だと括りはじめて言わなくなった。ハズ。

 

高校生のころ、医療技術が発達して、チップを入れたら振動で聴こえるようになるかもというニュースが流れた。川のせせらぎ程度の音が聞き取れる人は会話ができるまでになるだったかな。

親も、どう?と訊いてきたけど、手術というものに抵抗のある多感な時期だったこともあり、片方聴こえるからいいや。と流した。

 

学生のころはなんとなくやり過ごせていたけど、社会人になり、これが意外と厄介だと気付いた。

何を間違えたのか接客業に就いてしまった。

配膳の際、お客様と会話をしなければならない。突然呼び止められる。

聴こえない側の感覚が乏しいらしく、集中していないと無視されたと捉えられ、職場に迷惑をかけてしまう。

面接の際は意図的に黙っていたのではなく正面での会話だったから無意識だった。

指導係の先輩は慌てたけど、それを理由にクビにはできない。

私が意識を集中させていれば。ということでその場は収まった。

ただこれが神経を使い過ぎて結構疲れる。

普通の人が両耳聞き分けているところを片耳で拾わなければならない。どこから声が聞こえるかもわからない。音の鳴っている方向が分からない。聴こえる側で音を拾っている最中に話しかけられたらもう何が何だか。

 

それでもなんとか出来ていたけど、対人関係に疲れたということでもなく、事務職に就きたく転職した。

 

その職場では初めに話しておいたら、障がい者申請してみたら?と言われ、一度相談に行ってみたら、検査する間もなく軽くあしらわれ、通らなかった。

両耳あわせての平均数値だっけか。一番程度の低いレベルでもなく、普通に生活できるレベル。

確かに困らないと言えば困らないけど、困難な時もたまにはある。

その程度でと思う人もいるかもしれない。確かにもっと困難な人もいる。

自分で自分にもいう言葉が重くのしかかる。

『片耳聴こえているんだから』 

聴こえる側、正面から話しかけられれば普通に会話ができるが、聴こえない側から話しかけられたらほぼ聴こえず無視をしたと取られる。

私の聴力のことを知っている人ならば回り込んでくれるが通常はわかるわけがない。

通常は普通に会話できるもんだから親兄弟でも忘れるほどなのだから、その辺歩いている人にわかるわけがない。

 補聴器を付けていたら視覚的に理解されるかもしれないと試したこともあるけど、レベルを上げても耳鳴りがして頭が痛くなるだけだった。

 

集中して仕事をしていると、聴こえない側の意識が途切れ、話しかけられても気づけないことがたまにあり、それが「無視をした」「態度が悪い」ととられることも屡々。

 そんなのが続くと自然と人間関係も面倒になってきてストレスもたまり、さらに別の症状まで出てくる。

 

「筒抜け」という言葉がある。

私の場合、それが聴こえる側から入り、聴こえない側で塞いでしまうイメージ。

いいも悪いも、入ってきたらすべて受け止めてしまい、吐き出せない。

逆を言えば、入ってこないものはシャットアウトしてしまうのだけど、とりこぼしているものも多い。

何気なく発したであろうことも考えなくてもいいことまで必要以上に考えてしまい、わかっていても抱え込み過ぎてしまい、ある日突然あふれる。

コップの水みたいに、途中で溢したりして調整したりすることもあるけど、最近はそれができていない。原因は色々重なっているのもわかっているのにできていない。

解決の糸口がみつからない。

 誰かに聴いてほしいのに、言葉が見つからない。声にできない。

自分自身どうしたいのか、何がしたいのか、見つかっていない。

自分の声がまだ聴こえない。

 

金スマを観て、発達障害の中でも何かの才能に恵まれた人は救われるかもしれないが、才能が開花していない人はどうしたらいいのだろうと絶望さえしている人もいる。

私も似て非なるものかもしれない。

障がい者になってしまえばいっそ楽なのにと思うことさえもある。

だからと言って否定するわけではない。

少なくとも、金スマの出演者は、だれに対してもフラットだと思えた。

 

世の中にはいろんなことを抱え、誰にも知られないようにしている人もいる。

でも、気付いてほしい。ほんの少しだけでも気にかけてほしい。

色んな人の声を聴いてほしい。

『片耳聴こえているんだから』は慰めにも叱咤にもなっていない。

ただただジレンマに陥るだけ。